仮に、ヒトの脳を高度にプログラマティックなニューロ・コンピュータだとする。
ならば、ミームがそのプログラム・コードだと考えるとしっくりくる。
それでは、脳というコンピュータはどうプログラムされるのか?
コードそのものがコピーされるのではないと思われる。
ヒトと外界とのインタフェースは、感覚器官による入力と、体による出力だけだ。
「言語」は重要な役割を果たしているが、コードそのものではない。
しかし、行動や思想を抽象化して伝えることはできるので、メタ・コード的なものとも捉えられる。
ミームが脳の中のプログラムコードだとすると、それは
「ヒトからヒトへと忠実にはコピーされ得ない」
ということになり、すなわち「自己複製子ではない」ということにならないか?
「脳のプログラム・コード」を何と呼ぶか、それはまた考えるとして・・・・
翻って、私たちの周りには、私たちが生み出したと私たちが考えている、無数の「モノ」たちや「言葉」たちがある。
特に、量産された工業製品や、成功した小説などは、あるレベルでは均質であり、まとまった情報の塊として、忠実にコピーされていると言えるのではないだろうか。
・・・・これらこそ、文化の遺伝子、ミーム、なのだろうか・・・・
すると、「私たちが懸命にモノを作り、言葉を生みだし続けているのは、なぜか?」という問いに対して、
「労働に対する対価を売るため」「楽しいから」「生きがいを感じるから」
といった答え以外のものが浮かび上がってくる。。。
(私たちは、ミーム・マシーンならぬ、「ミームの複製機」なのか?)
ともあれ、ミームは遺伝子との対比から生まれた概念だからといって、同じ性質を持っているとは限らない。
ミームを『遺伝子の後に生まれた、新しい宇宙の情報処理の単位』と考えるなら、以下のような推論が可能だ。
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高度化した遺伝子とその複製を担う生命体<ヒト>の脳、それは宇宙というコンピュータの内部に生まれた高度な情報処理システムだった。
その脳が処理する対象が「ミーム」である。
ヒトの脳は、外界からのデータ(宇宙の内からの眺め)を入力として受け取り、それをミームに変換して格納し、それらを使って世界=宇宙を内側から解釈する。
ミームは、ヒトの言語によって或る程度表現できるが、「生(ナマ)のミーム」は「脳内に格納される情報」であるため、言語に変換すると別のものに変わってしまう。
「生ミーム」はまた、ヒトによって言語以外の様々なものでも表現されうる。それらは、ヒトの間では以下のような名称で呼ばれている。
→ 音楽、絵画など
また、言語を使った間接的な表現でも表現される。これは、「生ミーム」を直接的に言語に変換したものでは伝えにくい本質を伝えるための技術であるとも考えられる。
→ 小説、映画など
このように、ヒトが脳内の「生ミーム」を体外に表すとき、それを「ミームの外部表現」と呼ぶことにする。
ヒトが作るものすべてがミームの外部表現ではないが、例えば、実用的な製造物にミームを込める、といった行動も多く見受けられるのではないか。
→ 建築物、法律、習慣(などに込められたミームの外部表現)
ミームはまた、宇宙の要素と対応する何かを表すものだけでなく、宇宙を内観することで得られたデータを処理する過程で、脳内で新しく作られる場合もあるのではないだろうか。
このように、ヒトの脳は宇宙の中で宇宙の情報を処理する。
もちろん、ヒトの脳はヒトの体とつながり、その体は宇宙と地続きである。
それゆえに、脳の機能と処理能力のかなりの部分は、宇宙の抽象モデルを処理することで、個体やグループの生存に貢献することに使われている。
しかし、ヒトの脳が特別だと思われる部分は、宇宙を再解釈して、独自のモデルを構築するところにあると考えてもよいのではないだろうか。
実際、生存に直接かかわらない脳の活動も、決して少なくはない。
そうした脳の活動が、宇宙にとってどういう意味をもつものか、私は考えないではいられない。
